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太陽を抱く月(下)

太陽を抱く月(下)_a0192209_19293934.jpg太陽を抱く月 (下)  (2011年韓国)
チョン・ウングォル

初恋だったヨヌの面影を追いかける王・フォンの前に現われた、ヨヌに生き写しの巫女・ウォル。
やがてヨヌの死とその埋葬を疑いを抱く。その真相とは……!?

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以下、辛口です。上巻の感想はコチラ
ロマンス小説とは、ファンタジー小説とは、おふざけ風味の考察。







この1冊を読んで、韓国のファンタジー小説について、切り捨てるのはどうかと思う。
同じ作者の「成均館儒生たちの日々」「 奎章閣閣臣たちの日々」は、「太陽を抱く月」より、はるかに面白かったのだから。
しかし、この「太陽を抱く月」のファンタジーとしても、ロマンス小説としても凡庸なのは何故なのか。
どうしてこの作品が(ドラマも含めて)、あそこまで多くの人に支持を受けたのか、理解に苦しむ。

上巻は、まだ少しでも読み応えがあったかのように思う。読みどころとしては、以前にこう分析してみた。

フォン(王)に、自分がヨヌだと知られてはいけない、だけれどもあんなに恋焦れたフォンがそばにいて、フォンも自分に惹かれているのは嬉しい。
だがしかし決して自分の恋情を彼に悟らせてはいけない。
そんな彼女の煩悶する気持ちが、クールにミステリアスに読者には見えて、またフォンのウォルへの恋情を掻き立てる。
再会したその時から、フォンはウォル(ヨヌ)に問うている(上巻23P)。
「おまえを・・・抱いてはいけないか?」と。
そのフォンの恋情(欲情)を、ウォルはかわさなければいけない、自分も同じ気持ちなのに。
その2人の駆け引きが、読者を切なくさせるし、身もだえさせる。
フォンに早くウォルがヨヌであることを気づいて欲しい・・・と。そして自分を(ここでおそらく、大半の読者は自分をヨヌに投影させている)、もっと狂おしく欲してほしい、かきいだいて欲しいと、身もだえする。

また、雲のヨヌへの決して表には出さない秘めたる恋慕に身を焦がしている様にうっとりし、兄の妹ヨヌへの溺愛を堪能する。
ロマンス小説の、専門用語で言うと、「逆ハー状態」なのである。こんなにも愛されているヨヌ(自分)。しかし、ひっそりと耐えないといけない・・・
この耐えた状態から、恋愛が成就する瞬間が、愛し合う二人がすれ違い誤解を重ね、それでも互いを求めあい、結ばれる瞬間がロマンス小説の醍醐味であろう。

そう思って、私は、なんだかんだ文句をつけながらも下巻を非常に楽しみにしていたのだ。

ところが。

ところがだ。



下巻に入ると同時に、ヨヌ(ウォル)視点は皆無になる。
フォンの、ヨヌ=ウォルであるという証明探しが、本筋となる。
ここで、上巻から流れてきたロマンスの展開がぷつりと途切れてしまうのだ。

フォン目線でヨヌがいかに素晴らしい少女だったかを、延々と説明されていく。
王がどうして、1人の少女にそこまで惚れているのか、どうして忘れられないかが語られる。
しかしですね、私にはフォンが言うように、ヨヌがそんなにも稀有な少女には思えないのです。
姿は美しいでしょう、知識もあるでしょう(しかし、私にはヨヌの物言いがあまりにも老成していて、少しも女の子らしく感じないのですけれどもね。小賢しい・・・そんな感じ・笑)
これだけよ。彼女が持っているのは、たったこれだけなの。
「成均館」のユニのように、命をかけて、勉学に励み、アイデンティティを確立し、世界と関わっていこうということもない。あまたのロマンス小説のヒロインのように、愛に身を焦がし、手に入らぬことに苦しむこともない。
ヨヌって、なんだかお人形さんみたいで、命の輝きを感じないのだ、魅力的ではないのだ。
上巻ではヨヌをミステリアスに描写していたので、彼女の奥底には、何か熱い情熱が、手に触れた者を焼きつくすかもしれない熱情を秘めているのかと思っていたのだが、下巻ではただの絵に描いたお月さまなのだから。
自分の境遇に云々として従い、決して自分からその境遇を脱出しようとはしない。
王子が靴を持って、探しに来てくれるのを、ずっと待っているシンデレラがヨヌである。

ロマンス小説のヒロインとしては、どうなのか
ただ、そこにいるだけで、周囲の男性から愛され、求められ、大切にされる・・・そんな幻想が、この現代ではありえない。シンデレラは幻想だったと、私たちは知っているのだから。
日本の古典の「源氏物語」ですら、愛に関しては辛辣でほろ苦く、だからこそ、ロマンス小説でありながら、読者に人生とは何ぞや、と感じさせるのだから。

欧米のロマンス小説も、私は好んでよく読むのですが、ヒロインは必ずと言っていいほど、世間に自分をどう認めてもらうか、悩み苦しみ、傷つき、闘い、そんな彼女にヒーローは惹かれる・・・そんな黄金パターン。
かの「トワイライトシリーズ」だってそう。
自分が世界にどう関わるか、そういうこともきちんと書いていく。
ただ、男性に愛されることを待っているヨヌのようなヒロイン像って、どうなのよ?
どうしてこんなヒロイン像が、多くの人に支持されるの?

ロマンス小説としては、ちっとも評価できないわね。
読んでいてヒロインに共感する、という仕掛けが、「太陽を抱く月」にはないから。あるのは、チョン・ウングォルの願望だけだから。
周囲の男性に、無条件で愛されたい、なぜなら私はこんなに才能があって、美しくって、控えめなんだから・・・という願望しか透けてみえない。

そもそもロマンス小説というのは、作者のセクシャルファンタジーですからね。作者の性的願望を、世間に公表して、受け入れられればベストセラーっていう、恐ろしい自己表現の世界だと私は、思っています。
「成均館儒生たちの日々」「 奎章閣閣臣たちの日々」だって、同じセクシャル・ファンタジーですよね。
男子の中の紅一点になって、愛されたい私、という。

太陽を抱く月(下)_a0192209_2037239.gif


ではファンタジー小説として「太陽を抱く月」はどうなのであろうか・・・


設定は非常に、面白いなぁ、と感じます。呪術という世界観を見事に造形している。しかし、やっぱりファンタジー小説として考えても、物足りないんだよなぁ。

太陽を抱く月(下)_a0192209_2052866.jpgここ最近、この記事を書くために、日本のファンタジー小説を読みふけっていました。
日本ではファンタジーの世界観を創出する才能を持った多くの人が、マンガ界に流れていっているので、少女マンガ・少年マンガにも傑出したファンタジー作品」は、数限りなくあるが、ここでは小説に限ってあげていくと。
荻原規子の「勾玉三部作」、小野不由美の「十二国記」、上橋菜穂子の「獣の奏者」を始めとする児童文学は言わずもがな。
最近の注目株では、感嘆させてもらった幹石智子「夜の写本師」の、あのゆるぎない世界観の構築。
古くは少女コバルトから、氷室冴子の「なんて素敵にジャパネスク」「ざ・ちぇんじ」「銀の海金の大地」(あああ、あの、まほろばの国の物語が未完だったのが悔やまれます)
須賀しのぶの「流血女神伝」の、ほろ苦いあの余韻。
喬林知の軽快な語り口調とは裏腹に、王としての覚悟を書き続ける「まるマシリーズ」、もちろん栗本薫の「グイン・サーガ」(ただし最初だけですが。あとはグタグタ・・・笑)
「彩雲国物語」にもしびれたわぁ~
チョン・ウングォルもネット小説出身作家さんらしいが、玉石混合のオンライン小説にだって、iaという天才作家存在する。「F」や「S&S」という世界観の前には、いつも私はひれ伏す。
no-seen flowerの「バベル」も圧倒的だよなぁ。

これらのファンタジーに共通するのは、やはり少女たちは闘っている、ということなのだ。

その、その柔らかな心に傷を負いながら、血を出しながら、しかし、自分の手で世界と関わっていこうとする、そのまなざしに、読者は熱狂するのよね。
そういう意味では、やっぱり「太陽を抱く月」では、読んでいても血が燃えたぎることがないの。
ロマンス小説、ファンタジー小説としても中途半端な、そんな感じがする「太陽を抱く月」
設定は、ものすごく素敵だと思うのに。何かが描き切れていないもどかしさを、この小説には感じる。

この読後感、何かに非常に似ていると、悶々と考えたのですが、量産されているBL小説とか、少女コミック?逆ハー状態が、そのまんま一緒ですね。
もう、ここまで考察した書きついでに、オタク丸出し用語を使用して「太陽を抱く月」を解説していくと(爆)、逆ハーだし、主従萌え、兄妹萌え、ツンデレ、いいなずけ・・・という、もしかして二次創作(同人誌)のテキストとなりそうな「太陽を抱く月」ですね。

う~ん、そういう層の支持が根強くあるのかも、ね。
by moonlight-yuca | 2012-10-09 21:09 | ■本■
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